伝説の里・園家砂丘・県指定キャンプ場
園家砂丘は急流黒部川がもたらした砂でできた、扇状地の先端にある特異な砂丘で、県指定キャンプ場に指定されています。
南に北アルプスの秀峰を望み、北は能登半島を横たえた有磯海が望めるなど、すばらしい景観に恵まれています。
高台には国土地理院の一等三角点があることで知られています。
園家砂丘のことを地方の人々は「園家山」と呼んでいます。
ここに古くから伝わる「人魚の肉を食べたおとら」(不老不死伝説)や「大津波悲話」(園家千軒物語)、「龍宮のお椀」(善称寺物語)などの美しい民話とともに、地方の人々はこの砂丘をこの上もなく愛しています。
人魚の肉を食べたおとら(不老不死伝説)
田茂川の西側、県道と鉄道に挟まれた真ん中ほどの所に「寺屋敷」と称する所がある。
昔ここに善称寺があった。
お墓のあと、お庭の石、どぶのあとと称する田もあると村の古老達が語っている。
園家砂丘がまだなかった頃、おとらという娘が善称寺に女中となって働いていた。
その頃、お寺の近くにある池の底に龍宮があると伝えられ、ある年のこと、善称寺の報恩講のときに、お椀が足りないので、奥様が紙切れに「龍宮様、お椀を貸して下さい」と書いて池の中に入れたら、翌朝頼んだ通りお椀が池に浮かんでいた。その後毎年のように龍宮様からお椀を借りた。
ある年のこと、報恩講のときに、見慣れぬ高貴のお客様が参詣され、やがてお帰りになったあと、借りたお椀の底に刺身が一切残っていた。奥様は、「この肉を食べてはいけないよ」といったので、おとらはよけい食べたくなり、こっそり食べたところ、何とこれは龍宮様が召し上がるという不老不死の霊薬「人魚の肉」であった。
人魚の肉の効き目で、不老不死の身となったおとらは、何十年か何百年の後大津波が来ることを予言したが、村人は聞き入れず、園家千軒は全滅して跡に大きな砂丘ができた。
ただ1人生き残ったおとらは、流浪の末、若狭の国に留まり、生き神様としてあがめられ「おとら明神様」といわれていた。
後年こちらの人がそこを通った時にうわさを聞いて訪ねると、おとら婆さんは非常に喜んで、鼻の下まで垂れ下がった額のしわをかき上げ、かすんだ眼を輝かせながら「なつかしや下飯野の衆よ」と根掘り葉掘り故郷の話を聞いた。
しわが垂れ下がっているとき何百歳かに見えたが、しわをかき上げたら若々しい顔になったという。
そして「食事は、串柿2つずつさえもらえば生きていられる」「椿の木が枯れたら婆が死んだと思いなされ」と語ったという。
園家千軒物語(大津波悲話)
むかし昔、園家砂丘がまだなかった頃、ここに大きな港町があって園家千軒といわれ、日本随一のよい港として栄えていた。
その頃、この町に1老婆が住んでいた。
学問があって、何でもよく知っているので、町の人たちは何事によらず教えを乞うた。
ある晩のこと、老婆は星を見ているうちに突然気が狂ったように「町の衆よ、大変だ、津波が来るぞ、逃げろ逃げろ」と叫んで町中をかけまわった。
町の人たちは、「婆ァ、とうとう気が狂ったじゃ」と、誰も相手にしなかった。
ところが、そのうちに突然海鳴りがしたかと思うと、大津波が押し寄せ、あっという間に、家も人も跡形もなく押し流され、あとに大きな砂丘ができていた。
遠く離れた小高い丘のうに、かの老婆だけがただ一人立って園家の砂丘を見つめていた。
眼には涙がいっぱいたまっていたという。
園家砂丘の下には今も千軒の屋敷のあとがあると信じられ、正月になると地の底からお寺の鐘の音がきこえるという話である。
龍宮のお椀(善称寺物語)
園家千軒が栄えていた頃、すぐ近くの西の方に大島千軒と村椿千軒があって、合わせて三千軒もある大都市で、「この町はやがて天子様の都になるのだ」と町の人たちは話し合っていた。
ところが、ある夜のこと、大津波が押し寄せてこの町を一呑みにし、あとに砂丘ができた。
この悲しい出来事も遠い昔の物語となって、砂丘が美しい松林でおおわれた頃、ここに善称寺というお寺が建てられた。
その頃、誰言うことなく「この砂丘の下には美しい乙姫様の住んでいる龍宮がある」といううわさが立った。
ある年のこと、善称寺の報恩講のときに大勢のお客様を招待したが、お膳やお椀はお寺にあるだけでは足りないので、奥様はあれこれと思い悩んだ末、砂丘の下の龍宮様へお願いしようと紙切れに、「龍宮様、どうぞお客様25人前をお貸しくださいませ」と書いて、夕暮れの黄昏時にこっそり、ここぞと思う松の根元において返った。
翌朝、薄暗いうちに行ってみると、昨夜の紙切れがなくなってなんと目にも覚めるような美しい龍宮のお客膳が25人前きちんと揃えておいてあった。
その日の夕方、お講が終わってから奥様は御礼の手紙を添えて元の松の根元において返った。翌朝行ってみると、お膳がなくなって、紙切れだけが残っていた。
翌年の報恩講のときも龍宮からお客膳を借りた。その次の年も貸してもらった。こうしたことが何十年も続いたのであった。
ところがある年のこと、お講が終わっていざ借りたものを返そうとすると、どうしたものかお椀が1つ見えない。上を下への大騒ぎをして隅から隅まで探したが、どうしても見当たらないので、仕方なく、よく似たお椀を1つ足してそっと夕暮れ方に松の根元へ返しておいた。
翌朝、おそるおそる行ってみると、松の根元に例の紙切れと返したはずのお椀1つが、折からの雨に濡れて取り残されていた。
このことがあってから龍宮では、善称寺の報恩講にはどれほどお願いしても、お膳もお椀も貸してくれないようになった。
そればかりか、ちょっとしたお詣りごとがあっても、善称寺のお詣りごととなるときっと雨が降った。
「龍宮様のお怒りだ。龍宮様が雨にのって、なくなったおわんを探しにいらっしゃるのだ」と今もなお、尚言い伝えている。
間もなく善称寺は東狐に移り、門徒も増えたが、今でも報恩講のときには必ず雨が降るという。
-水公苑展示より-